今回は現役時代から「Legend」と言われ、ボストン・セルティックスを3度の優勝に導いた白人最高のプレーヤー「ラリー・バード」を紹介したいと思います。
身長206cm、体重100kgのSFで、1978年ドラフト1順目6位で指名を受け、大学を卒業した翌シーズンよりボストン・セルティックス入団。
ルーキーシーズン、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)獲得。またルーキーでオールNBAファーストチームに選出される。
翌1980-1981年シーズンにロバート・パリッシュ、ケヴィン・マクヘイルを獲得し、62勝20敗でプレイオフに進みNBAファイナルに進出。NBAファイナルではヒューストン・ロケッツと対戦し、2年目にして初のチャンピオンリングを手に入れる。
その後も1984年、1986年と優勝。同時にシーズンMVPとファイナルMVPも受賞している。
オールスターも1980年-1987年、1989年-1992年と選出され、1986年-1988年にはスリーポイントコンテストで3連覇している。
Magic Johnson
マジック・ジョンソンとは大学時代にNCAA決勝を争って以来、ライバルとメディアに注目され、マジック・ジョンソン率いるレイカーズとバードのセルティックスは1980年代にNBAファイナルで3回対決。レイカーズ優勝2回(1985年、1987年)、セルティックス優勝1回(1984年)となっている。
その後も30歳を超えた1987-1988年シーズンも1試合平均29.9得点(リーグ3位)、6.1アシスト、9.3リバウンドと活躍。
バードが踵の手術で6試合の出場にとどまった1988-1989年シーズン、チームは42勝40敗に終わり、プレイオフ1回戦で敗退している。
翌1989-1990年シーズン、バードは復活し1試合平均で24.3得点、7.5アシスト、9.5リバウンドの成績を残すが、チームはプレイオフでは1回戦でニックスに2勝3敗で敗退。
1990-1991年シーズンは背中の痛みが悪化し22試合欠場、1試合平均20点を割る。チームはプレイオフ進出するもカンファレンス・セミファイナルでピストンズに2勝4敗で敗退。シーズン後にバードは背中の手術を受けた。
1991-1992年シーズンも背中の痛みが続き、45試合の出場にとどまる。チームはプレイオフのカンファレンス・セミファイナルでクリーブランド・キャバリアーズに3勝4敗で敗退。
バードはこの年の夏にドリームチームⅠの一員としてバルセロナオリンピックに出場し金メダル獲得する。その後バードは引退を発表した。
オールスターには1980年-1987年、1989年-1992年と選出され、1986年-1988年にはスリーポイントコンテストで3連覇している。
背番号33番はボストン・セルティックスの永久欠番となっており、1998年にはバスケットボール殿堂入りを果たす。
引退後も1997-1998年シーズンに地元インディアナ・ペイサーズ監督に就任し、チームをカンファレンス・ファイナルに導き、最優秀監督賞を受賞している。
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